昭和44年1月25日 朝の御理解
第99節 無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は 助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる 者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。
無学でも、無学で人が助からんという事はないという事は、これは人が「やるんですよね?」。無学でも自分が助からんという事はないという風に頂いたんですね。もちろんその、これは取り次ぎの立場で仰っておられるのですがね。ですから、無学でも人が取次ぎ助けられると、こう言う。だからこれは、無学でも助けられるぐらいだから、無学でも自分が助かることが出来るという事である。
無学でもという事は、ここでは学問がなくてもという意味でしょうけれども、言うなら、あれがなからなければ、こうでなからなければ助からんという事はないとうい事。ね、言うならば、お金がなくても、まあ言うなら健康ではなくても、不健康であっても、金がなくても人が助けられるのであるから、自分もまた助け、それでも助かる事が出来るというものです。金はなくても、ね。
無学で人が助けられるという事はない。無学でも自分が助かる事が出来る。無学と言うのは何がのうてもと言うか。ね、次に、なら学問があっても真がなければ人が助からん。ね、学者が身を食うという事がある、学問があっても難儀をしておる者があると「 」。ね、そこへここんところは、なら、学問はあっても難儀をしておる者があるという事。という事は、お金があっても難儀をしておる者があるということ。
健康ではあっても、難儀をしておる者があると言うんですよ。ね、言うならば恵まれた状態下にあるように見えておっても、難儀をしておる氏子があるという事です。ありますよね、本当にあの人は幸せだろうと思い、金もあるし、物もあるし、健康でもあるのに、やはりもう死んだ方がマシと、もう口を開けば死んだ方がよか、もう死んだ方がマシちいうごたる難儀をしておる人あるんですよ、世の中に。
ね、ですから学問があっても真がなければ人が助からん。ね、学問はのうても真があれば人が助かるだけではない、人が助かるぐらいだから、自分自身が助からん事はないということ、ね。学者が身を食うという事がある、ね。せっかくその学問を身につけた、その学問が災いをするという訳です。せっかくあれだけの巨万の富を持ちながら、ね、その巨万の富がその人を苦しめておるという場合が沢山あるでしょう「世?」の中には。財産がなからなきゃ、あげな事がなかったろうと。2~3日前、誰かお話をしてましたがね。
その、火事になったんですよ。それでもう、あっという間にその、村を何件もその焼けた。ね、ところが、そこの嫁さんその、お金のヘソクリが二階にその、置いてあったらしいです。ね、それでその、まあ火に包まれたその、燃えておる中にです、飛び込んで行った。そして二階からその鷲掴みにその、入れてあるタンスの中からですね、そのお金を持ってきて表へ出ろうとした時にはげ落ちた、燃え落ちた。「はる?」の下敷きになって、それこそ沢山の金をこう手に掴みながらですね、やはり焼け死んでおられたと、こういう事です。
本当にこの人に金がなかったら、と思いますね。そういう極端な例だけではなくて、金をある為に非常に難儀をしておる人があるんですよ。ね、金を生かしきらん、健康を生かしきらん。このような素晴らしいものを頂いておっても、その健康なら健康を生かしきらなかったら、それは真がないからだと、ここには言うておられます。真がなければ、ね、人は助からん。
どころか、真がなければ自分自身が助からん。真があればです、例えばそんなに沢山のお金はなくても、なら人のように健康ではなくても、ね、助かる事が出来るのである。ね、むしろそのお金がその人を殺したような、学が身を食うという事はそのようにも頂けれる。ね、お金がその人を殺したという事になる。お金が、兄弟喧嘩をさせたという事になる。お金の為に、財産分けの為に、ね。血で血を洗うような要素、そういうような状態のところがいくらもございますよ。
学問があっても、難儀をしておる者があるという事。ね、様々に恵まれておるようにあっても、その恵まれておる事がかえってその人に難儀を作って難儀の元になっておるという事である。この方は無学でも皆おかげを受ける。この方は無学がなくても、何がのうても、何もないけど、力もなからなければ、いわば、まっ、平凡な私だけれども皆おかげを受けておるという事は、私はこのように何もしきらん、何もないのだけれども、私は助かっておるという事なんです。
ね、そこで、ここで、ね、真がなければと仰るんですから。学問があれば必ず苦労するという事じゃない。その人に真があれば助かる、また助けられるのである。ね、だからお道の信心を真の道と言います。ね、その真の道にあれば、ね、私は助かられる、また助けられる働きというものがです、ね、金光大神御取次ぎの働きという事になるのです。生神金光大神御取次ぎの働きの道にお互い御神縁を頂いておるというのです。
日々、お取次ぎの働きの中にあるなと、御取次ぎの働きの中にあるなと実感させての日々。ね、昨日は久留米教会の報徳祭「です。ここでは?」12月の16日にございましたですね。もう、この地区ではこの、久留米の昨日の24日の報徳祭を皮切りに各教会の報徳祭が始まるんですけども、ここは、もう御本部に神習わせて頂いて、御本部が12月であるから、この12月の16日に奉仕致しましたですね。というような事でございましたから、親教会の親教会に当たりますので、こっから若先生がおかげ頂いた。
で、この度は、楽の御用、奏楽ですね。楽の御用、合楽が担当になっておった。各教会回りでその、御用を承るように最近なったらしい。ほれでこっから、楽者の田中さんと、豊美と、まあ若先生と3人。10時までに久留米に行かなければならないと言うのに、まだ準備してない。ほれで、そげな事しよったら遅うなるはず。「きたしたら?」もう用意しよる。今から用意したところで、とてももう、10時には着けん。
それでちょうど、善導寺の久保山さんがある用件で見えておって、買い物を頼まなければならんのに田主丸のご自分の店に電話をかけて、そちらから、こういう物を買うて帰って来てくれんかと。と言うてその、頼んどったらしいから、あの、信者さんがすぐそれをとなえてやってきた。それがもう9時40分ぐらいあったでしょうか。おかげで、それに便乗させてもろうて3人送ってもらった。
帰って参りましたら、ちょうど良かったとこういう訳なんですね。夕べ聞かせて頂いたんですけれども、あちらの楽長さんが豊美に、親教会の奏楽の御用をされるのは、もうこれがおそらく最後になるだろう、合楽は。貴方が最後になるだろうから、貴方がここで今日は音戸を出して下さい、とまあ親切に「頂いた?」のでおかげを頂いて、私が音戸を出させて頂いて。これはもう、楽長さんが出すのですね、だいたい言うたら。けども、まあこれが最後になるだろうから、貴方が音戸、まあ言うなら一番若い豊美にあの、おかげを頂かせて下さったと言うて、喜んでおります。
「また私?」、若先生から昨日、遅かったから詳しい事聞いておりませんけれども、万事万端御都合お繰り合わせの中に、例えばおかげを頂いておる事が分かりましょう。はあ、遅うなる、どうなるじゃろうかではなくてから、そこには、まるきり、そのお迎えに来て下さる車のような車が、ちゃんとそこにあって。しかも「 」さんが、送るだけじゃない、帰る時間が分かっとりゃ、また帰り、またお迎えに参りますと言うてから、私あの、別れたんですけども、その後どうだったか知らんけど。そのようなお繰り合わせの中におかげを頂いておる、ね。
昨日は、中島の上滝さんところの、で恒例の謝恩祭がございました。私はそちらの方へ参りました。まあ様々な、昨日一日なら昨日一日の働きの中にです、大抵お取次ぎの働きの中に、何て言うでしょうかね。あの、「軌道?」の上を走っておる機関車がね、キチッとしたその、時間表の通りに動いておるような感じですね一日が。ね、どこで脱線する事もない、どこで時間が送れたという事もない。キチッとその、まあ言うならば置いた物を取っていくように一日の中に、万事万端の上に御都合お繰り合わせを頂いとる。
しかも、んなら最高のおかげの中に、ね、例えて言うなら、なら楽の事でもそうです。ただ楽人としておかげを頂くというだけではなくて、ね。楽長さんが、ね、おそらく今度が最後になる、親教会での楽の御用は最後になるだろうから、豊美さん貴方が。どうしてあの、それは今度、縁につくといったような事は知っておられたか知らないけれども、そういう事を知っておられた、ね。ですから、貴方が楽のおかげを、音戸を出して下さいとこう、いう風に。これはたったそれだけの事ですけれども、一時が万事なんですよ。
ただ時間が間に合うたというだけじゃなくて、そこには、ちょっとした、最高、こんなに混んでおる中に席があったと言うようにです、汽車に乗る時に。ね、ちゃんとここには一つ私の席を取ってあったというように、もう一時が万事におかげの頂けれる道なんです、金光様の御信心は。ね、それが狂うてくる、それが「いらい?」、いわば汽車に乗り遅れるように、乗ったばってんもう、向こうまで立って行ったといったような事ではなくてです、ね。そういう御都合お繰り合わせの中におかげが頂かれる。そういう道、ね。
私は助かるという事はそういう事だと思うんです。ね、例えば今日なら今日も様々な行事がここにございます。今日第一に幹部の、幹部研修会がある、初の幹部研修会。同時に、初の婦人会の例会がございます。今日はあの、造園のもう最後の仕上げであるところの灯篭が到着して、灯篭が今日はあの庭に立つ日にもなっております。ね、例えば、なら今日一日の教会の上に、こうしてある事の中にでも、そこに万事万端の御都合お繰り合わせを頂いて、灯篭を持って行きよったら途中で事故に遭ったとか。
灯篭は持って来たばってん、「 」じゃったとか。というような事ではなくてです、万事万端御都お繰り合わせの中におかげを頂けますように。研修会もしかり、婦人会の初の会も、例会もその通りにおかげを頂けれるようにという。今日はまだ分からない、どういうおかげになって来るか分からないけれども、今日一日の事のお取次ぎのお願いをさせて頂き、お願いをお繰り合わせを頂かせてもろうて、ね、これはもう万一の事であるから、そこんところのお繰り合わせを頂いて、毎日、それこそ置いた物を取って行くようにお繰り合わせが頂けれる道なんだと。今日はまだどういう事になるか分からんけれども、そこんところを願って行く。もう実にたんたんとしたですね。
いよいよ世の中の、原罪、現状ですかね。険しきが上にも険しい思想の中に、ね、それに対処して行こうと言うのではなくて、その中に万事万端の御都合お繰り合わせを頂いて、ね、いわば世の荒波というような事を申しますけれども、その荒波ではあろうけれども、荒波に沈められるような事なく、打ち当てられるような事もなく、その荒波に乗って、こうかえって、おかげが頂けて行けれる道なん。ね、それにはです、ここんところの、無学で人が助けられんという事はないと。
何がなからなければ人間が幸せじゃないという事ではない。学がなくても、お金がなくても、健康でもなくても御取次ぎを頂いて、どういう荒波の中に押しもまれるような事の中にあっても、押しもまれんで済む、それに、いわば乗って行けれる道。万事万端になるよう、都合お繰り合わせの頂けて行けれる道。しかも、汽車なら汽車に乗り合うた、ああ間に合うただけではなくて、そこにはその人の掛けれる席がちゃんと用意してあるようなおかげの頂けれる道。
そういうお取次ぎの働きのあっておる、またおかげの頂けれる道にお互いおりながらです、乗り遅れました、席がございませんでしたと言わんばかりんです、ね。しかもそこには、学もありゃ金もあっても、ほんなら信心させて頂いておっても難儀を感じておるとするならばです、これは、ね、真がなければ人が助からんと仰るように、人が助からんところから自分も助かってない。結局、真の欠如であるという事をお互い知らにゃいけません。真がないから、世の中が難しゅうなってくる、世渡りが難しゅうなってくる、家庭生活が難しゅうなってくる。ね、真がないから金銭の上にスムーズなおかげが頂けない。どころか、例えば軌道を間違えた機関車のように衝突が起きてくる。
それは大変、それは微に入り細にわたっての、ちょうどあの、時間表を見るようにです、もうそれこそ、あらゆる楯十文字にです、きぞうがこう、走っておる、それは思うたとだけでも気が遠くなるようにややこしいようにありますけれども、ね。たったそれをですね、その温、そうした神様の働きと言うかね、温厚と言うか、ね。例えばその、機関車なら機関車が時間の通りに動いておるという事がです、それに便乗させて頂くという事がです、その時間表を覚えておかなきゃならん、こげなきぞうがこうあると、難しい理論や理屈を知っておっても、真がなければそれには乗られないという事。
だからどういう難しい社会情勢の中にあっても、真が一つあればです、ね、乗る事が出来、席が頂けようという事。金光様の御信心とはそういう信心なんです。ね、例えばなら昨日一日の事でも、私が今申しておりますように、ね、一つどこにか狂いがあったらです、もう合楽は当てにはならんと。ね、合楽は当番であるのに楽にも間に合わなかった。ね、あっちは若先生がその、あちらの先生は、ね、私の代参、まあしてくれる訳ですけども、大祭にも来てなかった、後から行っとったんじゃ、例えば言われても思われても仕方ない。
けれども、そこにはちゃんとこう、別に探す、その、ならタクシーでも呼ばじゃこてというような事もなしに、それこそ、ちょっとこう、ね、自動車が、お迎えの自動車が来とるようにお繰り合わせを頂いておるでしょう。お繰り合わせを頂いて、いわゆる汽車に乗り合うただけじゃないでしょう。そこにはその席がちゃんと設けてあるようなおかげを受けておるでしょう。ね、そういう働きの中に、昨日一日合楽の上におかげを受けておる。また合楽の御神縁を頂いておる皆さんの上にもそういうおかげを受けておる。または、受け漏らしておる人も沢山あろうけれども。
昨日、中島に参りましたら、皆揃うておるのに、北野の人達だけが来てない。はあ地元であるのに、どういう事っじゃろうかと思いよったら、ただ秋山さんが一人来てある。お祭が済んでから、半ばに皆がやってきた。ほれで昨日、秋山さんがお届けされるのに、先生もう日々の御理解というものを本気で行ずる気になりゃ、もうあの通りにおかげが受けられるとですけれども、と言うて、もう昨日は御理解を切りいくようなおかげを万事万端の上にお繰り合わせを頂いたと言うのである。
ね、務めに出ておられるご主人が帰って、普通来る時間じゃない時間に帰って来てから、今日は中島やったけん、俺が単車に乗せて行ってやろうと、こう言われる。貴方もつつみさんの自動車が来るもんば貴方、お自動車で行くけんで良かち言うたら、腹かかっしゃったんです。せっかく俺がお前ば送ってやろうと俺が帰って来たつにお前は。そしてからハッと思うてから、はあ昨日親先生が御理解の中に、ね、それこそ、もう素直になったが一番ええ。
右向けてはい、左向けてはい、と例えば、例えば主人が右向けち言うた時に、いや私は左がええて言うところに問題があるのだから、主人が右向けと言うたならハイ、左向けて言うたらハイ、と言うとったが一番楽だ、これが助かっておるんだという御理解があったですね、昨日。その事を思い出させて頂いて、はあどうもスイマセン、なら送って頂こうと言うて送ってもらったと言うのである。ね、ちょうどお祭が始まろうとする前に間に合うておかげを頂いた。そして、「井口?」の人達が皆見えてからあの、今日はアンタ車が帰って来んもんじゃけん私だん歩いてやって来たと言うて、皆歩いてやってきておるから遅くなったていう訳なんです。
ね、本当に楽なん、ね。乗せて行ってやろう、送ってやろうと言う時はハイと言うたがどのくらい楽か分からん。いいえ井口の車が来るけんでと言わんでも、ね。言うとったらどういう事になっただろうか。とにかくお祭にも間に合わんじゃった、主人な腹けえたなり帰った、また「つみに?」行ったという事になるだろう。主人も満足、自分も有り難い、しかもお祭にも間に合うた、歩かんでも良かったというおかげ。
ね、たったそれだけの事だけれどもです、ね、そういう日々そういうおかげの受けられる中に私共はそういうお取次ぎの働きのあってる中におかげを受けておるという事なの。ね、自分の我力で行ったり、人力で行ったりしたんじゃつまらん。どこまでも神様のいわば、ね、神力と言うか、神様の力によって、神様の働きの中にある、お取次ぎの働きの中にあって、いわば真一つをもっておかげの頂けて行けれる道。そこでなら、真とはどういう事になるかという事になります、ね。
真、真心、それは色々にまあ検討されておりますけれどもです、ね。素直に教えに忠実であるという事がです、私は真だとこう思いますね。難しい事は言うことはいらん、ね。朝のお参りをさせて頂いて、はあ、その御理解を自分の心の中に頂いて、全部が全部覚えとける事はいらんけれども、ここはと思うたところを頂いて帰って、それが一日の、ね、例えば生活の中にです、ね。どういう世間の難しい荒波の中に、例えばポンと投げ出されるような事になってもです、その荒波の中に、それに沈められる事もなからなければ、叩かれる事もなく、その上を、その中を、ね、おかげの頂いて行けれる道があるのだと。
ね、真とは、真心とはと言うて追求をすると大変難しい事になります。ね、それを例えば一つの学問的にでもそれを追求いたしますと、それこそ、ややこしいですね、鳥栖の、あの鳥栖の駅なんかに、もうあっちこっちの線がいっぱい入ってから、もうどの線がどの線じゃ分からんごとその、もう網の目のように「ビールがこうしちかって?」あるようにややこしいものなんです、実を言うたら。
ね、けれどもそれが、真一つでちゃんと自分の乗れれる機関車、自分の乗れれる汽車がちゃんとそこには間に合うように出けておって、しかもそこには自分の乗らせてもらう席までが用意してあるようなおかげの頂けれる、それは真一つで頂けて行けれるのだという。真がなからなければ人が助からん、真がなからなければ自分自身も助からん。ね、私はそういう真という事がどんなに難しい事かは、思うただけでも難しいのですけれども、本気でそうして、なら秋山さんじゃないけれども、教えを、はあそうだったと思うて行ずるところからです、生まれてくるのが真なの。してみると難しい事はないでしょうが。
そこには自分も助かっとりゃ人も助かっておれれる、そこに道がちゃんとあるのです。いやもう井口の車が来るけんで、もうアンタがと、もう良かち言うとったら主人も腹立ち帰っとったじゃろう、自分な、とうとう間に合わんなり、ね、歩いてから江口までまたあの、長島まで行かなきゃいけなかった、ね。
学問があっても難儀をしておる、ね。例えばお金もあって、ね、キップを買うお金もちゃんと持っておる、健康でもあって、ね。どこへ行ったっちゃ、楽な健康を頂いておっても、ね、買うた切符が役に立たんように貴方、乗り合わせなかったらどうするですか。いや乗った車が脱線するならどうするですか、ね。この方は無学でも皆人が助かっておる。ね、この方は無学でも自分自身が人が助かるほどに、自分自身も助かっておるという事になる、ね。
今日は御理解99節をそのような風に頂きましたね。特に、真がなければ人は助からんと仰る。真がなければ、人が助からんどころか自分自身も助からん。ね、真とは、と追求するなら、それは大変な難しいこと。それを分かってはならんのじゃない、分かる事も有り難いけれども、まず差し詰め、真とは教えに忠実であるという事、そこから、真とは、真の道とは自ずとその真が分かって行き、自ずと真の道が分かって来る。
真の道が分かって来ればどういう事になるかと言うと、例えば昨日なら昨日一日の中に、ね合楽的様々な行事の、行事の事がです、ね、一分一理間違いのないおかげを頂いておるだけではなくて、その上にまたおかげを受けておる事をです、一つ思うてみて下さい。なら今日一日の中にもです、例えばお取次ぎを頂いて、願わせて頂いておる事。これは合楽教会の行事の事だけでも、ね。幹部研修会の事がどうぞ万事にお繰り合わせを頂きますように。ね、婦人会の初の会、例会でございますから万事お繰り合わせを頂きますように。今日は最後の仕上げであるところの造園の灯篭が立てられる日になっておりますから、万事万端お繰り合わせが頂けますようにという事になる。
そうすると、そんなら灯篭を据えることの為の御用をさせて頂こうという事になったら、これはもう真です。今日は婦人会の初の例会に出席させて頂こうという事は、もうその真の中にあるはずです。今日は幹部研修会にやらせて頂いて信心の研修をさせて頂こうという事になれば、もう真の中にちゃんと道がついておって、その道を歩くように間違いがないです。これは教会行事なら教会行事の事だけでもそうなんです。
ね、私がその事を教会行事。その事を願ってあるのですから、これがいつものように、昨日の続きですがね。昨日の続きが今日にあるのですから、今日もまたそのような万事万端御都合お繰り合わせの中に、素晴らしいタイミングの中におかげが受けて行けれる事であろう。その中にある、なら皆さんもやはりその通りのおかげが受けられるという事になるのです。ね、だから言うならば今日は、それが真だと私は申しました。
ね、今日は理屈で言う真ではなくてね、ね。そうさせて頂けば真が分かる、そうさせて頂きゃ真の道に出る事が出来る。そういう事を皆さんに聞いて頂いた、ね。そこで無学で人が助からんという事はないという事は、ね。金がないから不幸せという事はない、学があっても、その学問が身を食うと言おうがと仰るように。例えお金があっても、健康であっても、その健康が、またはお金がです、かえって災いの元、かえって難儀の元にするような事ではつまらんでしょう。
ね、そこに一つのルールというものがある、ちゃんと軌道というものがある。健康の使い場というのがある、お金の使い場というものがある。そこんところを間違えない事が、今日私は真と申しましたでしょう。その真、その真。真一つでとこう、その真一つをです、例えば学問的に研究するなら大変な難しい事なんだけれども、それが分からなくても、無学でもです、素直に、はあそうですかという気になればです、そしてそれを行ずる気になればです、ね、昨日秋山さんが体験しておられるように、教え通りに、教えを地で行ったような昨日一日であったと、秋山さんがお届けをしておられるようにです。
本当に、たったこのくらい笹屋かな信心に、このようなおかげを頂いてと、一日を締めくくる時にです、有り難い。本当に信心を頂いておる事が有り難い、日々お取次ぎを頂いて生活させて頂いておるという事が、何と有り難い事かという一日で締めくくって行く事が出来るのだ。それは学問がのうても、金がのうても、物がのうても、いや不健康では、健康ではなくても、ね、そういう助かりの頂けれる道なのだ。
その上、健康に恵まれ、その上お金にもまた、より恵まれ、ね。人間関係の上にも、より恵まれるおかげを頂いて行くという事は、先ほど申します、汽車に乗り合うただけではない、そこにはちゃんとした勿体無いように、こんな混雑の中にたった私の乗る席が一つだけ開けてあったというようなね、おかげの頂けれる道なのです、どうぞ。
末永信太郎( 5月2日 )